イスラム教では説明しきれない製鉄所の謎

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製鉄所 星はかつて、夢を見た

2日目はみんなで用意して観光へ!

警察の密着24時?でお馴染みの派出所。笑

それから八幡製鉄所へ向かう
電車のなかでみんなの6sの色が違うことが
判明して嬉しくて興奮するという。笑

そして到着!!!

教科書とかで見たことがあるような
雰囲気じゃなくてビックリ

あかーーーーーーーんのパレード。

何もないところでも
楽しいのがこのメンバーの面白いところ笑
それから一蘭の本店に行ったり
一藤のもつ鍋を食べに行ったりしてホテルへ
今日は起きとこうと思ったけれど
やっぱり安定でまた寝ちゃうという失態笑

製鉄所で満足!満足!!

こんにちは。

歴史家とっきぃです。

とうとう最後の将軍、徳川慶喜の登場です。

昔、ジャニーズ事務所のシブがき隊モックン(本木雅弘)がNHK大河ドラマで主役を張っていました。また、最近では「篤姫」で佐久間良子女史の息子さんが演じていました。

ただ、イケメンが演じているから立派な人とは限りません。

以前、生徒の母親に慶喜のことを話していたら急に怒り出して

「モックンのどこが悪いのですか?!」と詰め寄られました。

モックンはモックン、徳川慶喜は徳川慶喜。

演じている俳優と徳川慶喜はまったく別の存在ですので、注意しましょう。慶喜は「スシ食いねェ!」を歌いません。

慶喜は「よしのぶ」、「ケイキ」の二種類の読みが並立します。宗家十六代目の恒孝(つねなり)さんは後者を採用しています。なにしろ幕府を瓦解させた人物ですから複雑な心境なのかもしれないですね。

人間には、これだけはやってはいけないという約束事があります

人種民族を問いません。それは、部下を置き去りにして上司である自分だけが安全圏に逃げること。いわゆる敵前逃亡です。どれだけすばらしい前歴があったとしても、また後の人生でどれだけ栄華につつまれようとも、この一件ですべてがパーとなります。

有名人では徳川慶喜とダグラス・マッカーサー元帥です。

ダグについては、何回か記事にしていますので割愛します。

慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が全力で薩長と戦っているにもかかわらず、大本営の大坂城から軍艦「開陽丸」でコソコソ逃げて、本拠の江戸に戻っています。先陣の将兵はまったく知らないまま戦っているのです。母親が皇族だからとか、錦の御旗を出されたからとかは言い訳になりません。自分だけが逃げたという事実が問題なのです。この点を考えたら、人として、男として、大将として、どうしょうもないクズです。

が、政治家としての彼を観たら、また別な顔があらわれます。

慶応の改革には、その政治家の一面が見えます。

第二次長州征伐の失敗で、軍制改革の必要を骨身にしみて叩き込まれた慶喜将軍は幕府のアイデンティティーそのものの見直しを図ります。これまでの改革をみてもわかるように、神君家康公以来の幕府のやり方ではにっちもさっちもいかないのです。

まず、鎖国政策が通用しなくなりました。鎖国政策というのは鎖国する側にそれを断行する意志と、その決断を担保する軍事力の両輪があってはじめて成功するのです。

1640年(寛永17年)、スペインから独立したポルトガルの大使が来日します。自分たちはもはやスペインの一部ではなく新生ポルトガル王国なのだから、一からやり直さないかとポルトガル人が日本に訪(おとな)いをかけてきたのです。しかしながら、幕府は強硬でした。水や食料、薪(たきぎ)などのライフラインは与えましたが九州の大名に動員をかけておびただしい数の船でポルトガル船を包囲、舟を並べて港の封鎖までやっている念のいりようです。ここまでやってはじめて、ポルトガル大使は引き上げていきました。

ポルトガルの同盟国だったオランダはこの件で江戸表(おもて)からこってりと譴責を受けたそうです。興味のある方は山本博文博士の『家光はなぜ「鎖国」をしたのか』(河出文庫)を読み解いてください。かなり硬い文体ですので念のため。

ちょっと神経質に見えますが外交というのはそういうものです。「話し合い」だのなんだので決まると思っている現代日本人の方が安倍総理を含めておかしいのです。「そんなバカな」と思われる方はヘンリー・キッシンジャー博士の『外交』(上下巻/日経新聞社)をひもといてください。後半、アメリカよいしょが目立ちますが、この人はアメリカで成功した人物ですのでご勘弁くださいね。

外交というのは軍事力と交渉力の両輪あってはじめて成り立つのです。そして軍事部門を専らにする幕府がその基盤を崩されようとしているのです。高杉晋作の狙いはまさにこの点にあったのです。

かくして慶応の改革がはじまります。

舞台はもはや江戸城ではなく京都二条城です。島津三郎が江戸城で断行した文久の改革を上書きする形で進められます。文久の改革で新たに設置された陸軍総裁・海軍総裁の肩書を掘り起こして老中に兼任させます。また、外交の重要性を認識して後の外務大臣にあたる外国事務総裁を、財務大臣にあたる会計総裁を、総務大臣にあたる国内事務総裁を同じく老中の兼務として「五局体制」となり、彼ら専任総裁を統括する老中首座が事実上の総理大臣となるように幕閣の位置づけを変えていきます。軍事政権から正真正銘の中央政府への脱皮を目指したのです。

もはや軍事力の対象ではない旗本八万騎も軍役義務は解かれました。鎌倉幕府の天下草創からずっと続いてきた御恩と奉公からなる封建制度はここに消えたのです。奉公は知行地からの銭納という形で相殺されました。官僚の小栗上野介は、薩長の先例をお手本にして提携したフランスを範にとって新式陸軍の訓練や、横須賀に製鉄所をこしらえて富国強兵策に勤しみます。また、未実施におわりましたが国内流通や、日仏合弁の貿易会社をつくって国家主導による海外貿易を活性化させるなど江戸時代のラックポイントを補強する政策も考えています。また、北海道に開拓民を送り込む政策は後に明治新政府に引き継がれています。その努力は実り、21世紀現在、北海道は日本最大の穀倉地帯です。

以上が幕府最後の改革である慶応の改革のあらましです。

慶喜将軍が偉かったのは、幕府が大政委任論によって成り立っていることを前提にことをすすめたことです。

日本の政治の主催者である朝廷から「節刀」を受け取ることでローマでいう臨時独裁執政官(独裁官)の権限を帯びたのが征夷大将軍という官職です。もともとが従四位下相当の低い官職ですが、右大将とか大納言とかの高位官職を兼任することで無敵の存在になります。既存の官職を組み合わせて兼任することで無敵の「ローマ皇帝」を創設したアウグストゥス帝の知恵と相似形ですね。前期ローマ帝国もまた大政委任論で成り立っていたともいえます。

大政奉還というのは、大政委任論によって朝廷から預かっていた「節刀」をお返しすることです。つまり独裁官の官職を返却するという意味です。朝廷は困惑します。政権運営能力なんてとっくに失くしているからです。

かといって、松平慶永、島津三郎、伊達宗城、山内容堂の大名連合も所詮は「やんちゃ大名」です。利権のことしか頭にない連中です。問題なのはジャーディン・マセソン商会に責任がある薩摩の西郷吉之助や大久保一蔵、長州の桂小五郎です。なんとしてでも幕府を倒して新政権を樹立させなければならないのですから。

幕府はもはや譜代大名の持ち物ではなく、日本を統治する中央政府です。そして中央政府としての責務を果たすべく慶喜将軍が採用したのは英国流の統治形態です。ですので、慶応の改革が成功して徳川家の政権運営が続いていたら、朝廷は政治から棚上げされてほんとうの意味での「日本の象徴」となり、国家元首は終身大統領たる徳川宗家で総理大臣は老中首座という、議院内閣制とフランス第五共和制を併せたような政治システムが誕生したかもしれません。

慶応の改革の目指す方向性は決して間違ってはいなかったのです。

そして、日本全国のことを考えていたのもおそらく慶喜将軍と老中たちだけだった可能性が高い。秀才・七郎麿(慶喜の幼名)の面目躍如といったところです。

このままの流れで行けば、「上様」こと徳川慶喜を首班とする日本国が誕生したかもしれません。慶喜は幕臣の西周(にし・あまね)に英国の政治制度を研究させて、大政奉還後の構想を練っています。

周の『議題草案』によれば、行政権は「公府」、立法権は大名当主が議員である「上院」と各々の藩士からなる「下院」から成る「議政院」、軍事力は段階を経て中央に統合、大名領はそのままという構想です。江戸後期には西国雄藩は別として、一般的には大名領というのが名目的存在になりつつあり、災害が起こったら大名領と幕領の関係なく江戸の老中の支持をあおぐシステムが完成されています。軍事の統帥権は国家元首「大君」にあります。大君は上院議長を兼務して、下院の解散権と採決権を持つという官職でした。首都は大坂。地方行政は大名に委託、天皇は立法を裁可するのみで拒否権はなし。

なかなか優れた構想です。ご一新の後に足軽あがりの伊藤俊輔(博文)たちが採用したプロイセン流憲法とは雲泥の差です。何より責任分担と指揮系統が『議題草案』でははっきりとしています。それにひきかえ、大日本帝国憲法はそのあたりがあいまいで群龍になってしまい、日本を敗戦国にしてしまいました。

以上をもって、シリーズ幕末の改革は終了です。

安政の改革による開国路線、文久の改革にはじまる幕府の公器化、そして慶応の改革による中央政府への脱皮。

やはり徳川政権は柔軟この上ない、恥ずかしくない政権で
した。

戊辰戦争で旧幕府軍は敗北して、ジャーディン・マセソン商会が心待ちにした明治のご一新がなります。
明治政府は約束どおり不沈空母として、ロシアを撃退して大英帝国における東アジアの要の役割を果たします。
第一次世界大戦後、ワシントン海軍軍縮条約で日英同盟は破棄されます。この条約はどの国も海軍の維持にカネがかかりすぎて音を上げたことに端を発します。
英:米:日:仏:伊がそれぞれ、5:5:3:1.75:1.75の割り当てになります。これが日本は気に入らなくて、せめて英米の70%にしろと抗議しました。これは大きな間違いです。守る海の面積が英米と日本とでは違うのです。英国は全世界に領土を点在させています。また、米国は大西洋と太平洋、メキシコ湾のすべてを守備範囲としています。近海だけを守ればいい日本とは事情が異なります。そういう事情を知っているからこそ、フランスもイタリアも納得しているのです。メンツにこだわるのがちょっと幼い日本の帝国海軍ですね。

その後、英国は日本に配慮を続けて、1933年に塘沽(タングー)協定で満洲国も承認します。日本は情報を軽視。ヒットラー政権に心酔して大東亜戦争に突入しました。
英国の自信とプライドの象徴であった新鋭艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈、アジア植民地を開放してチャーチルを泣かせたのは本人の『回想録』に載っています。

徳川慶喜はビビリで敵前逃亡を図ったどうしょうもない男ですが、
政治家としての資質と今後の日本の歩むべき道を示したという点では、くやしいですが認めざるを得ません。
慶応の改革と『議題草案???????』は、もっと評価して今後のイケメン俳優さんには慶喜を演じてもらいたいものですね。

監察を重視した徳川の世の中が続いていたら、また違う歴史が織られていたかもしれないと考えると、ワクワク楽しくなりますね。

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